夏の初めの一つの失敗と一つの感動
夏休み始まって早々、2回心が大きく揺さぶられた。
まず、取材に関して謝罪事件を起こしてしまった。
先方には「もう気にしてないですよ。」メールをいただいたのだが、決して許してもらえたとは思っていないし、俺自身それだけじゃ失礼なままで煮えきらない。
改めて現行の取材システムを考えてみると色々と問題点がある。
これは今回の件に限らず、日本のジャーナリズム全てに言えることかもしれない。
起業家へのインタビューというとその方の人間性にスポットを当たることが多いのだが、記事の読者はあくまで”一般”であって自分の興味のある分野の深い質問ができない。
そして伝えるべきことは取材相手の言動や歴史であって、記者の考えや感想が入り込む余地があまり無い。
つまり、記事自体は一コンテンツとして成り立たたず、取材相手・人が全てなのである。
以上の点を俺は問題だと思っている。
たしかに記者はジャーナリストやコメンテーターではないかもしれないし、生粋の記者という方の取材に対するお考えを聞いたことは無いが、ただ言われたことを書くだけというスタンスに俺にはモチベーションが上がりがたい。
それは取材先の人の話がおもしろくないとかそういう次元ではない。
取材システム自体の俺にとっての問題(ただ俺の性格的問題かもしれないが)なのである。
問題だと言うといいすぎ感もあるが、ブログといった個人の意見の主張の場が増えたことで、これを解決する新しい取材システムが生まれる気がするのだ。
そして高校のテニス部合宿にOBとして参加。
一つの目標に向かう純粋な集団を目の当たりにした。
大学生になると色々な雑念が入り込みやすいが、高校生の彼らは「東京都ベスト4→関東大会出場」という具体的な目標を元に、合宿中は純粋にテニスのことだけを考える。
全ては目標達成のために。
AM6:00の朝連からPM9:00のMTGまでひたすらテニステニス。
その中で、入ってきたばかりの一年生に試合で負けた二年生の泣いて落ち込む姿を見た。
本当に悔しかったのだろう。
西高テニス部は俺らの代から部内ランキングを設けて常に試合を意識するシビアな体制となったのだが、次の日から負けた一年より下の班で練習することを思うとやりきれないはずだ。
一つのことにこれだけ感情をあらわにできる。
最近並行処理で色々なプロジェクトに関わっている俺にとっては新鮮というか、大事なことを思い出させてくれた感じだった。
4年しか離れていないとは言え、限りなく遠い若さを感じた。
俺も若々しく、一つの物事に真剣に取り組んでいかねば。
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まだ野間いるのか
カワイソス
野間Tの独裁国家設立。
まあおもしろいけどね。
まぁ、記事にはいろいろあるんよ。
基本的に記者は「個」を殺すことに徹する必要がある。
それが、自分も記者をやってみて最初に苦悶した壁。
事件報道みたいな一般記事は、自分の主張を押し付ける場であってはならない、ってのは戦後反省されたことだそうな。
毎日新聞なんかは「主張を押し付ける新聞はもういらない」的なことも言ってるしね。
現場を取材した記者が書いた、客観中立的な記事から読者が主体的に判断する。それが基本とされてる。
もちろんコラム系の記事は自分の主張こそが主役になるけどね。
ブログはそんな役割が本当に色濃く出せるものだと思う。
ただ、どんな記事にしても絶対に「個」を消すことはできないと思うんよ。
客観的な記事、って言っても絶対に記者は何らかの「選択」をしてるわけだし。
例えば六大野球を伝えるにしても、東大を伝えるのか、慶応を伝えるのか、法政を伝えるのか、法政の大引選手の活躍を伝えるのか、すばらしいジャッジをした審判を伝えるのか、観客の盛り上がりを伝えるのか、応援団の声援を伝えるのか・・・。
いくらでも伝える情報はあるわけよね。
んで、記者は限られた字数で何らかの情報を「選択」して伝えなきゃならん。
だから情報を「選択」をしてる時点で絶対に「個」は消せんのよ。
もちろんインタビュー記事も同じ。
どんな質問をするか、どんな答えを載せるか、自分の「選択」が記事に反映される。
だから「ただ言われたことを書く」ってわけでもないと思う。
同じく「取材対象が全て」、というわけでもないと思う。
個を殺しながら、個を活かす。
それが記者の腕の見せ所、って自分は思ってる。
って言っても、自分はプロの記者じゃないし、サークルレベルの記者美学なのかもしれんけどね。
まぁ、要はとりあえず自分の主張ばかり全面に出すと荒れちゃうのよ。
2chなんかがその典型だと思われ。
人の考え方はいろいろだからね。